2011年04月13日

写真撮り忘れ

近所の和菓子屋さんで、おはぎと桜餅と3色だんごを購入。戸水屋っていうんだけど、なんか、おもてから見てるだけでやさしいきもちになる。だから写真撮り忘れちゃった。そんな帰り道。

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posted by にしもとちひろ at 15:57| 犀川日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月12日

同一延長線上

わたし、昔、小学生の通学路。

帰り道、男の子たちに混じって、
いつも石を蹴りとばして、帰ってきていたこと。

で、途中で見失わないように、家まで運んであげられると
本当に嬉しかったんだけど、そのとき、私は
この石はもしかして、お父さんなんじゃないかとか。
(お父さん、確か会社行ってるはずだけど)
でも、死んだおじいちゃんかもしれないとか、
あるときは死んだ〜さんかもしれないとか。

そうよくわからないけど、

「そうであるのだから、私はこの石を絶対に
この通学路で見失ってはいけない、どんな草むらに彼が
行ってしまおうが、絶対に手を使わずに、そこから蹴り上げて、
恐ろしい横断歩道もわたり切って、絶対に家に連れて行くんだ。」

いつもそんな風に思って、必死に蹴って帰ったものです。

不思議と空き缶とかはデカイし、蹴っていても
家まで「お父さんだから持ち帰ろう」
みたいには思ったことはありませんでした。

宿神論や草木即神観なんて
子どものときも今でもまったくわかっちゃいないけど、
不思議なもの。

途中でお別れしちゃった石をどこまでも探した小さな通学路。

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posted by にしもとちひろ at 23:21| 犀川日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

春の野に出でて

気づけば、雨が上がるまでゆっくり寝てしまった。

雨上がりの外の温い空気が、いつまでも冬と
想い込んでいる身体にまだ馴染まない。

桜の蕾が水を含んで色っぽすぎて、
なんだか、眼を逸らしてしまう。

視線を落とすと、木の元にたくさんの土筆。

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2011年03月28日

がんばって

N700系の電源が「つかってもいいよ」って
みどり色をしているとき、わたしは本当に安心して
もう大丈夫だっておもう。レッツ君はこれで平気だって。
満タンでもうおなかいっぱいだっていうレッツ君でも
なんかコンセントに挿していたくなる。

ビュホーン。

戻ってくるときには咲いてるかな。

庭のモクレンは鳥さんがムシャムシャ食べてボロボロになってた。

なんか鳥がムシャムシャして、お父さんが寂しがってるのが
オカシイから、鳥が来るたびに「お父さん、鳥がまた食べてるね」(イヒヒ)
とか言って、別に庭の春のことは、いっかなっておもってたんだけど・・・

庭と娘の面倒と決算ストレスで
ぎっくりごしになったお父さんは
あなたにお水をあげられないかもしれないんだけど、
チューリップさんは(がんばって)咲いてあげてね!

って家を出てきた。

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(おとうさんをよろしくね)
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2011年03月26日

豪華オールカラー版

欲しかった西行物語絵巻
(豪華オールカラー版)をゲットしました。
とてもうれしいです。

ずっと文字だけで読んでいたので、
なんかもっと畏れみたいなのがあって、
絵巻も一度みたら十分って感じだと
想っていたんですが、開いてみてびっくり。

そんなことはなく、
あの崇徳上皇の鎮魂の場面や笈に骨を拾って歩く場面も
なんだか、絵があると普通?の感覚で読めて、
これは・・・スゴイって思いました。

なんか絵っていうのは、絵が入ることで
心理的に文章の過激さ、誇張さといったらいいのか、文章の技巧っぷり
を緩和してくれて、畏れとか寂寞さみたいなものを過度に感じ過ぎず、
その逆過ぎず、程よいように収めてくれる。

絵はすごいです。

絵を伴った物語というものが、広い読者層に長年支えられてきたということが
この絵巻を通して一層わかり、はい、とてもよかったです(まる)

追記
私はいつのまにかまちづくり本を読むのは辞めてしまっていましたが、
最近、西行先生や長明先生のされてきたことが私の理想とする
まちづくり「手法」であると、会社6年目にしてようやく気づいたので
ちょっとここ半年くらい前からちょっとまじめに
べんきょうをしています。研究とかのレベルではないけど。

一般に先生たちは、遁世とか、世捨てとか捉えられていますが、全く逆な先達です。
社会起業家とかとは(当然)比較にならぬ、積極性、斬新さ、貢献度合です。
ものすごい濃い意思決定と行動はただならぬ文化をつくり、1000年後の
わたしたちの世界に在ります。

ただ、一番の難題が今まで自分がまちづくりだと語ってきたことと、
自分が気づいてしまった憧れのまちづくりへいきつくまでに
ゴールイメージの包摂性はあんまり?変わらないのですが、
それに行き着くまでの「手法」があまりに差があり、
仕事として全くこの差を埋めようがない点(これは致命的)です。

こんなことに真剣に悩んでいる自分を呆れもせず、みんながせっかく
アドバイスしてくれた手法たちも、私には技術的に難度過ぎて、
まったくわからんので、今度ちゃんとパシっと教えてください。
でもみんな、ha?!っていいつつも、いつも優しくしてくれて
ほんとみんな包摂的。西行先生級です。ありがとう。

では、また、美味しいラーメンを食べながらおしゃべりしよ。
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2011年03月22日

時の鐘

先週、いつも行くカフェに行った。(Jさんと)
何か本を持っていきたいっていうので、
どうしよっかって探してたらなぜかキンピカリン
(去年カバーだけ変わった新潮文庫)の
『金閣寺』を手に持っている。

うんと、今、その本で大丈夫??って聞くと、
うんキンピカリンな気分だよと言うので、
ほんとか?と想ったけど、
ま、いっかと思って出かける。

川越は普通の観光地に戻っていた。

走っていると芋イモしたソフトクリームを
ベロベロベロベロ舐める観光客を次々に見てしまって、
気分が落ち込む。

人力車なくなんないかな・・・。
こんなにカンタンにまちを安物に装飾できるものは無い。

紫色ののぼり旗が風にバタバタ揺れる。
Jさんが何度もくしゃみをする。

ケーキを選ぶ。
私は、やっぱりアップルパイ。
Jさんは僕は芋ロールが佳いという。
公僕はこんなときも従順だね。

ゆるキャラとB級グルメで地域おこしとか
まったく耐えられない兄弟なのに、
お互いそんなものの近しいところで
なぜ働いてるんだろうねって、一瞬想うけど、

まあ、そんなどうでもいいことは
弟のかわいさで超消しです。

ゴーン、、、、

ゴーン、、、、

時の鐘が時刻を告げると、
私たちはようやく気持ち落ち着きます。
こういうのが十二分なまちづくり効用であります。

実際はでもこういうかんじ(下記)だけど、
姉さん、数年もたないので安心しなねって。

優しいね。(ぐすん)


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川越市のゆるキャラさん ときも(時の鐘+名物の芋)

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2011年03月21日

末の松山 波こさじとは

ちょうどはじめて覚えた謡(『雪』)の冒頭が
ワキ(諸国一見の僧)の「末の松山はるばると」ではじまる
「今、自分は末の松山(宮城県)にいて、
これから大阪天王寺へ行くところです。」
と挨拶する場面だった。

自分は初めて習った謡であったこともあって、子どもみたいに
一生懸命お稽古をしたから、暗記してしまっていて、
平常心を取り戻すために、謡でもやろうかと想って謡いだそうとも
末の松山が出てきて、すぐに記憶が現実に戻されてしまう。

「末の松山」は
「末の松山 波もこえなん」(古今集・東歌)でも
「末の松山 波こさじとは」(後拾遺集・清原元輔)でも、
末の松山を波は越えない、それは絶対だとされた歌枕な場所だ。

すなわち、末の松山が波を越えるというのは「あり得ない」という意。

1000年以上前、そんな場所であった「末の松山」を波が越えた
2011年3月11日。
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2011年03月19日

なんも変らないよ

Mと六義園へ行った。日本庭園。陽だまりベンチで、いろいろ話してたら、千尋、変わったねって、今まで見てきた千尋じゃないから、わたし不安って。私の元から離れてゆくような気がするから不安なのかな、と言う。大丈夫、わたし、なんも変わってないよ。なんもね。って言った後、こんなに何もかもが移りゆく、変りゆく中で女同士の何の意味もなさないようなそれでいて、平穏さを支える日常会話が優しくて少しおかしかった。M、ありがとう。また会おうね。

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2011年03月18日

ここ

日曜日、お能の稽古の帰りに、テケテケ歩いて、小石川植物園に行った。
目の前のヤマザキパンの店主(今まで出会った中で最も無愛想)
よりチケットを購入。

入口のお姉さんより余震に気をつけてくださいと言われた。

はじめて来たここはY君の言っていたとおり、天国のようだと思った。
ゴダールのアワーミュージックの最終節の天国のような世界。

東大管理だから怖くて無意識に避けてきたんだけど、
ここはよいところのような気がした。

浜離宮みたいに借景に電通ビルやらなんやらは見えない。

塀向こうの小さな印刷工場の平常営業の音がした。

外国人の親子連れや写真家の古老がちらほら居た。

花の芽を小鳥がむしゃむしゃ食べていた。

くすのきの大樹の下で本を読んだ。

私はいろいろな想いがした。
posted by にしもとちひろ at 15:20| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月16日

祈りの音

数えること。

被災者の数。
地震の規模。
放射能の濃度値。

数えること。
子どものとき、最初に習う
数えること。

いち、に、さん、し・・・
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・
羊が一匹、羊が二匹、それは眠れない夜にも使われた。

指を折りながら、数えたし、それ以上を
たくさん、とも言った。

私たちにとって、数えること。
なぜ私たちはそもそも数えるのだろう。

数とは一旦、地に落ちると
なにがしかの安心を与えると同時に、
なにがしかの不安を与えるものになる。

数は分ける。私たちの日常を分ける。
比較可能なように、わかりやすく。
データ化し、確率をはじき、
より大丈夫な方向?が示されるように。

私はその恩恵を受け、今日が在ることを否定しない。

ただ、数は私たちの無垢な?自然な感情を
容易に超えてゆくことができる。

わが身の安堵に。愛するものの無事に。

被災した人間と被災していない人間。
被害にあった地域と被害にあわなかった地域。

数は今日も数えられた。
分けられた現実を保存し、よりよく更新するためだ。

ただ、自分はどちらに数えられたのか。

後者でよかった、という安堵感は果たして健全か。

より安全で、より安心で、より大丈夫に
より不安を取り除こうとする本能。

「コンビニにパンも水も電池もカップラーメンもなくって
何個もスーパーも回って午前と夕方1回ずつ行って、
ようやく、2、3日は過ごせる食料は確保できたわ。」

この安堵は果たして健全か。

分けられた現実の中で、その更新が始まる。
その更新は本当に「未来へ」の志向を持つものか。
その「未来」とはいったい何か。

私たちがより、安心するため?安全であれるため?
私たちは今日も数えた。
〜%の確率で、〜〜するでしょう。

後者の「前者のために」という声と行動で日常が埋まる。埋まり始めた。
前者は数値の増大の中に無声で閉じ込められたままだ。

その数値は一刻一刻、増えてゆく。
後者はその数値を数え、観る。
そして整え、行動する。

それが繰り返される。

元来、私たち祖先が絶えずしてきた
数えるということは、こんな風に日常を
分かつための手段なのか。

数えるということは
その分かれた相手を
数日前まで同じであった、
同一であった相手を数え、差異を更新するものなのか。

いや、自分の、そして愛する人たちの無事への感謝を越え、
「虚心に数えるということはどこかで
祈りへ通じるものかもしれない。」
最近、どこかで読んだ古井由吉の言葉に
包摂を想った。

数は分かつためのものでなく、数えることは
祈りに通じるものであると、であるから、
わたしたちは、今日も数えるのだ、と。
明日も数えるのだと。

私たちの日常をそんな未来へ投ぜよと、
数え切れない雨粒が音をつくる。

私たちが雨粒の数など知らねど、音は在る。
分かたれることなく、確かに在る。

それは自然に反復され、更新され、
ゆっくりと森へ土へ海へ還る。

森羅万象と。
posted by にしもとちひろ at 04:31| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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