2011年03月28日

がんばって

N700系の電源が「つかってもいいよ」って
みどり色をしているとき、わたしは本当に安心して
もう大丈夫だっておもう。レッツ君はこれで平気だって。
満タンでもうおなかいっぱいだっていうレッツ君でも
なんかコンセントに挿していたくなる。

ビュホーン。

戻ってくるときには咲いてるかな。

庭のモクレンは鳥さんがムシャムシャ食べてボロボロになってた。

なんか鳥がムシャムシャして、お父さんが寂しがってるのが
オカシイから、鳥が来るたびに「お父さん、鳥がまた食べてるね」(イヒヒ)
とか言って、別に庭の春のことは、いっかなっておもってたんだけど・・・

庭と娘の面倒と決算ストレスで
ぎっくりごしになったお父さんは
あなたにお水をあげられないかもしれないんだけど、
チューリップさんは(がんばって)咲いてあげてね!

って家を出てきた。

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(おとうさんをよろしくね)
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2011年03月26日

豪華オールカラー版

欲しかった西行物語絵巻
(豪華オールカラー版)をゲットしました。
とてもうれしいです。

ずっと文字だけで読んでいたので、
なんかもっと畏れみたいなのがあって、
絵巻も一度みたら十分って感じだと
想っていたんですが、開いてみてびっくり。

そんなことはなく、
あの崇徳上皇の鎮魂の場面や笈に骨を拾って歩く場面も
なんだか、絵があると普通?の感覚で読めて、
これは・・・スゴイって思いました。

なんか絵っていうのは、絵が入ることで
心理的に文章の過激さ、誇張さといったらいいのか、文章の技巧っぷり
を緩和してくれて、畏れとか寂寞さみたいなものを過度に感じ過ぎず、
その逆過ぎず、程よいように収めてくれる。

絵はすごいです。

絵を伴った物語というものが、広い読者層に長年支えられてきたということが
この絵巻を通して一層わかり、はい、とてもよかったです(まる)

追記
私はいつのまにかまちづくり本を読むのは辞めてしまっていましたが、
最近、西行先生や長明先生のされてきたことが私の理想とする
まちづくり「手法」であると、会社6年目にしてようやく気づいたので
ちょっとここ半年くらい前からちょっとまじめに
べんきょうをしています。研究とかのレベルではないけど。

一般に先生たちは、遁世とか、世捨てとか捉えられていますが、全く逆な先達です。
社会起業家とかとは(当然)比較にならぬ、積極性、斬新さ、貢献度合です。
ものすごい濃い意思決定と行動はただならぬ文化をつくり、1000年後の
わたしたちの世界に在ります。

ただ、一番の難題が今まで自分がまちづくりだと語ってきたことと、
自分が気づいてしまった憧れのまちづくりへいきつくまでに
ゴールイメージの包摂性はあんまり?変わらないのですが、
それに行き着くまでの「手法」があまりに差があり、
仕事として全くこの差を埋めようがない点(これは致命的)です。

こんなことに真剣に悩んでいる自分を呆れもせず、みんながせっかく
アドバイスしてくれた手法たちも、私には技術的に難度過ぎて、
まったくわからんので、今度ちゃんとパシっと教えてください。
でもみんな、ha?!っていいつつも、いつも優しくしてくれて
ほんとみんな包摂的。西行先生級です。ありがとう。

では、また、美味しいラーメンを食べながらおしゃべりしよ。
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2011年03月22日

時の鐘

先週、いつも行くカフェに行った。(Jさんと)
何か本を持っていきたいっていうので、
どうしよっかって探してたらなぜかキンピカリン
(去年カバーだけ変わった新潮文庫)の
『金閣寺』を手に持っている。

うんと、今、その本で大丈夫??って聞くと、
うんキンピカリンな気分だよと言うので、
ほんとか?と想ったけど、
ま、いっかと思って出かける。

川越は普通の観光地に戻っていた。

走っていると芋イモしたソフトクリームを
ベロベロベロベロ舐める観光客を次々に見てしまって、
気分が落ち込む。

人力車なくなんないかな・・・。
こんなにカンタンにまちを安物に装飾できるものは無い。

紫色ののぼり旗が風にバタバタ揺れる。
Jさんが何度もくしゃみをする。

ケーキを選ぶ。
私は、やっぱりアップルパイ。
Jさんは僕は芋ロールが佳いという。
公僕はこんなときも従順だね。

ゆるキャラとB級グルメで地域おこしとか
まったく耐えられない兄弟なのに、
お互いそんなものの近しいところで
なぜ働いてるんだろうねって、一瞬想うけど、

まあ、そんなどうでもいいことは
弟のかわいさで超消しです。

ゴーン、、、、

ゴーン、、、、

時の鐘が時刻を告げると、
私たちはようやく気持ち落ち着きます。
こういうのが十二分なまちづくり効用であります。

実際はでもこういうかんじ(下記)だけど、
姉さん、数年もたないので安心しなねって。

優しいね。(ぐすん)


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川越市のゆるキャラさん ときも(時の鐘+名物の芋)

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2011年03月21日

末の松山 波こさじとは

ちょうどはじめて覚えた謡(『雪』)の冒頭が
ワキ(諸国一見の僧)の「末の松山はるばると」ではじまる
「今、自分は末の松山(宮城県)にいて、
これから大阪天王寺へ行くところです。」
と挨拶する場面だった。

自分は初めて習った謡であったこともあって、子どもみたいに
一生懸命お稽古をしたから、暗記してしまっていて、
平常心を取り戻すために、謡でもやろうかと想って謡いだそうとも
末の松山が出てきて、すぐに記憶が現実に戻されてしまう。

「末の松山」は
「末の松山 波もこえなん」(古今集・東歌)でも
「末の松山 波こさじとは」(後拾遺集・清原元輔)でも、
末の松山を波は越えない、それは絶対だとされた歌枕な場所だ。

すなわち、末の松山が波を越えるというのは「あり得ない」という意。

1000年以上前、そんな場所であった「末の松山」を波が越えた
2011年3月11日。
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2011年03月19日

なんも変らないよ

Mと六義園へ行った。日本庭園。陽だまりベンチで、いろいろ話してたら、千尋、変わったねって、今まで見てきた千尋じゃないから、わたし不安って。私の元から離れてゆくような気がするから不安なのかな、と言う。大丈夫、わたし、なんも変わってないよ。なんもね。って言った後、こんなに何もかもが移りゆく、変りゆく中で女同士の何の意味もなさないようなそれでいて、平穏さを支える日常会話が優しくて少しおかしかった。M、ありがとう。また会おうね。

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2011年03月18日

ここ

日曜日、お能の稽古の帰りに、テケテケ歩いて、小石川植物園に行った。
目の前のヤマザキパンの店主(今まで出会った中で最も無愛想)
よりチケットを購入。

入口のお姉さんより余震に気をつけてくださいと言われた。

はじめて来たここはY君の言っていたとおり、天国のようだと思った。
ゴダールのアワーミュージックの最終節の天国のような世界。

東大管理だから怖くて無意識に避けてきたんだけど、
ここはよいところのような気がした。

浜離宮みたいに借景に電通ビルやらなんやらは見えない。

塀向こうの小さな印刷工場の平常営業の音がした。

外国人の親子連れや写真家の古老がちらほら居た。

花の芽を小鳥がむしゃむしゃ食べていた。

くすのきの大樹の下で本を読んだ。

私はいろいろな想いがした。
posted by にしもとちひろ at 15:20| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月16日

祈りの音

数えること。

被災者の数。
地震の規模。
放射能の濃度値。

数えること。
子どものとき、最初に習う
数えること。

いち、に、さん、し・・・
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・
羊が一匹、羊が二匹、それは眠れない夜にも使われた。

指を折りながら、数えたし、それ以上を
たくさん、とも言った。

私たちにとって、数えること。
なぜ私たちはそもそも数えるのだろう。

数とは一旦、地に落ちると
なにがしかの安心を与えると同時に、
なにがしかの不安を与えるものになる。

数は分ける。私たちの日常を分ける。
比較可能なように、わかりやすく。
データ化し、確率をはじき、
より大丈夫な方向?が示されるように。

私はその恩恵を受け、今日が在ることを否定しない。

ただ、数は私たちの無垢な?自然な感情を
容易に超えてゆくことができる。

わが身の安堵に。愛するものの無事に。

被災した人間と被災していない人間。
被害にあった地域と被害にあわなかった地域。

数は今日も数えられた。
分けられた現実を保存し、よりよく更新するためだ。

ただ、自分はどちらに数えられたのか。

後者でよかった、という安堵感は果たして健全か。

より安全で、より安心で、より大丈夫に
より不安を取り除こうとする本能。

「コンビニにパンも水も電池もカップラーメンもなくって
何個もスーパーも回って午前と夕方1回ずつ行って、
ようやく、2、3日は過ごせる食料は確保できたわ。」

この安堵は果たして健全か。

分けられた現実の中で、その更新が始まる。
その更新は本当に「未来へ」の志向を持つものか。
その「未来」とはいったい何か。

私たちがより、安心するため?安全であれるため?
私たちは今日も数えた。
〜%の確率で、〜〜するでしょう。

後者の「前者のために」という声と行動で日常が埋まる。埋まり始めた。
前者は数値の増大の中に無声で閉じ込められたままだ。

その数値は一刻一刻、増えてゆく。
後者はその数値を数え、観る。
そして整え、行動する。

それが繰り返される。

元来、私たち祖先が絶えずしてきた
数えるということは、こんな風に日常を
分かつための手段なのか。

数えるということは
その分かれた相手を
数日前まで同じであった、
同一であった相手を数え、差異を更新するものなのか。

いや、自分の、そして愛する人たちの無事への感謝を越え、
「虚心に数えるということはどこかで
祈りへ通じるものかもしれない。」
最近、どこかで読んだ古井由吉の言葉に
包摂を想った。

数は分かつためのものでなく、数えることは
祈りに通じるものであると、であるから、
わたしたちは、今日も数えるのだ、と。
明日も数えるのだと。

私たちの日常をそんな未来へ投ぜよと、
数え切れない雨粒が音をつくる。

私たちが雨粒の数など知らねど、音は在る。
分かたれることなく、確かに在る。

それは自然に反復され、更新され、
ゆっくりと森へ土へ海へ還る。

森羅万象と。
posted by にしもとちひろ at 04:31| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月05日

ホンモノ、ニセモノ、灰色

安部公房の講演のテープを聴いていて
なんか、いろいろ思うことがあって、
なんか、箱男のことを話していて、
存在証明(看板、登録)を下ろすことや匿名性という観点より
乞食や親の存在とかニセ医者に言及していたので、
かなり聴き入っていたんだけど、
そしたら、オヤジが帰ってきて、
一部だけを聴いて、
「なんだ。こいつ。話がめちゃくちゃだな。」と言って、
ももひきで横を通り過ぎた。グレーだった。

私はその時、どういうわけか、ものすごい、言葉に出来ない
厭な感じを覚えた。
ビジュアルもタイミングも心理的に最低な気分になった。
白じゃなくてよかった。もっとひどい気持ちになったと想う。

その直後に、安部公房は
親が死んだとき、親が死んで哀しいと
いう気持ちとほとんど等量に裏腹に、
ほっとするという気持ちを子どもがどこかで
必ず抱く。親になるとこの気持ちを私たちは
受け入れられないけれど、誰でも
子にはそういう思いがある、これはと言った。

そして、この恐ろしい部分を抜き出して、
これは真理である、原理であるといったら
私たちには落ち着かないってのがありますね、と。

私はぼーっと聞いていたんだけど、
父は通り過ぎて、そこは聴かないで通り過ぎたようだった。

ほっとしたような、聞かせたかったような
複雑な気持ちがした。

親の愛情によって子は生かされてきたし、殺されてきた。
常に一線を越える愛情と憎悪が包摂の周縁を行き来する。

やっぱり、いくらすり切れたテープであっても
肉声ってのは力だな、と思った。

いや、物書きには余計な力だな、とも思った。

そんな感じでいると弟がやってきて、
「お姉さんそんな暗い顔して
安部公房の講演テープなんて聴いてる女は
モテないよ。考えてみなよ。
母さんももう諦めてお雛様も3日過ぎて、
いつもは慌てて片付けてくれるのに
もう片付けてもくれないでしょ。ね。姉さんは
自分でもうちゃんとしなくちゃいけないんだよ。」
と言った。

弟は世界で一番正しく、可愛い。
いつものとおり思った。

そう思うと、その存在をつくりし両親は
なんだかんだ、ももひきさんだって、すばらしい。
ありがとう。

追記
安部公房のニセ医者の話が一番この講演テープでは
わかりやすくて面白かった。

一貫して、ホンモノとは何か、
国家の用意した制度、登録、証明の仕組みと
わたしたちの存在自体(生命)のありよう、その両者の関係についての話
だったと思うんだけど。

国家試験にとおった、つまり登録された医者との比較で
ニセ医者とどっちが怖いかっていう話、つまりは
本物であることがいいことではないって話。

これは話の内容が想像つくとおもうので、詳細書かないが
とてもよかった。ええ、実によかった。(です!)


posted by にしもとちひろ at 22:27| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月04日

近江の朝に 2

何かにつけ、少々過激であるように
一工夫、中身のない言葉を並べ、そう仕向けることで、
海原に一瞬の波が立つ。
容易とは言い切れないが、風とともにそれは確かに立った。

(過激といったって、少々目立つくらいの意味で使っている。
あしからず。)

一方、ごく僅かの小波を起こし続ける方法は
ちょっぴり過激であるようにくらいのおまじないでは
生じさせることができない。

私たちの観られる、限られた時空を越えて、
その運動を大海原の無限に、私たちの存在が消えようとも
残りし、僅かな小波の運動となれば、なおさらだ。

それはいわば、
未完たる連綿、いや、連綿たる未完の運動文様へ
私たちの身体を、いかに織り込めるか、だ。

始まりも終わりも、意識されぬ(させぬ)よう
運動文様の中へ。

尖鋭なる友人たちのプレスリリース発信に寄せて。
リリース、後の小波と。

いや、その前に敬服と。

私はここ数年プレスリリースなるものを
1本も出していない。これは企業体としては
休眠状態であることを意味する、ことはわかっているけど、
どうしても出す気が起こらない。

波立たせることに憧れつつも、己の非力ゆえに倦みやすく、
その倦みやすさが、いずれ、吉と出るのか、凶とでるのか
全くわからないから、不安な日々だったりもする。

そんなとき、いつなんどき、いかなる歩を、いかなる盤に。

その自然な様に、自然な体に、
想いを馳せよ、馳せよと、竹生島の謡う。
posted by にしもとちひろ at 00:11| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

近江の朝に

近江の朝に

「私のような者には
引き合いに出すのも遠慮されるところだが・・・」

古井由吉を読むと、呼吸が整えられる。

以前、おそらく「「が」の地獄」というタイトルだったと思うが、
『新潮』にて、芥川の遺作『歯車』に
あまりに接続詞「が」が多いことを引き、

「あれは、なにごとかですね。「悪文」とひとは言うけれど、
ぼくはあの小説の生命じゃないかと思った。」

と、、物を書く人間がいかに接続詞を置く作業に
心を砕いているか、それは生命を繋ぐ作業であると
いう風に述べていたエッセイを読んだ。

それ以来、またもや単純な自分は彼の文章の
起伏なき、誇張なき文字の綴り方ではなく、
繋ぎ方をやけに意識するようになってしまったのであるが、

ただ、「接続」に心を注ぐことによって、あの文体の静かなる
本当に静かなる綺麗で優しいものが出来上がるのかと想うと
ゆるり、ゆるりと波の音が迫ってくるような当たり前の波の
「結節」に気持ちや視線が届き、おのずと、そのこれまでの当然が
愛しくなってくる。

嗚呼、彼の本の折り目の縫い目の中に
身体が吸い込まれるように
眠く、優しく、自分の中の冷酷さや狂気じみたものと
一緒に畳まれたく。

明け方の夢。
白き、近江の包摂。

さざなみの絶え間ない結節と。
posted by にしもとちひろ at 22:54| まちの風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月01日

めちゃんこ包摂されましたとか

オクタビオ・パスと包摂。

春の雨はとても冷たく、
ちくま学芸文庫さんの厚みが
愛しく、うきゃきゃ。

さて、今般の出張では
実は本を一冊も持って出ませんでした。
旅先で買った本の数もきわめて少なかった。

ドキドキしながら「あのぉ、ZINEを
置いていただけるか否かの審査は持ち込みでなくても
郵送でも大丈夫ですか?」とお兄さんに伺うので精一杯で、
本選びに没頭できなかったこともありますが。

(ありがとう、大好きなG書房@京都さん。
何を言っているのか、なぞなぞな人間に、どんな
ZINEなんですか?と懇切丁寧に聞いてくださって、感謝(泣)です。)

→あ、(Mさん)この前、教えてくださった、
京都の「ぱんとたまねぎ」さん引っ越すみたい(福岡さんに)だよ。

さて、私という人間は、最近、下手すると出張先でまちを歩かず、
ホテル篭りをして、本を読んで、綺麗なお風呂に浸かって、寝てしまうという
いつのまにか、完全に駄目なまちづくりやさんになりつつあったのですが、
今般の旅路はいや、そうではいけない。

きっとワクワクするものであろうと
そんな期待があったためです。

ただし、出歩いたは出歩いたで、限界まで
外にいたことは確かですが、毎晩飲んでいて、京都で合流したY君に
「お土産とかええん?」と聞かれたとき、
「あ、大丈夫」とか答えてたくせに、実は大丈夫でも何でもなく
確か、その前々日、その前の日も一緒に行けなかった
(ぐすん)ケイコスティン用に
ご当地名物・うんちゃらボーロ@長浜とかを購入したのに、
その場所、場所(たぶん、飲み屋とホテル)に
忘れてきた!!!!!!ということも
一週間も忘れたまま、つい、さきほど思い出し、
がびょりんこ、ショックでした。
(ケイコスティン、ほんとうにごめんなさい。)

なので、記憶にしっかりとあり、ちゃんと手元にあるものは
最後の滞在地、上勝だけです。

上勝のことは後で新聞かZINEに書くので
(いま、ケイコスティンが新聞をつくっている)、
そちらに・・・・。

今回は何を書こうかと想ったかというと、
そうです、パス先生のことです。

昨晩より『弓と竪琴』(牛島信明先生の訳)を読みはじめて
心臓がバクバク言いました。

啓かれるべき、蒙とは何か。

私なんて、この問いだけで、鼻血が出るかと想うくらい
ドキーってしてしまうんですが、パス先生はその問いに対し、
両極にある相克の結合(統一)という大胆さを持って、
(というよりは、対の相矛盾、その
両者の間にある緊張、それ自体を「詩」と呼び、「全体」と呼んで、)
彼のいうところのあらゆる「詩的」活動を持って、
未完なる答えを出し続けることで、啓きを示そうとされました。

これは、気持ちがいいという次元ではなく、
あの曖昧模糊でノスタルジックでしみったれていた
私の中での「詩的である」という従来概念
(「詩的である」とは一体どういうことか)を
破壊してくださり、

曖昧さと明確さを
くすんでいたものと透明さを
複雑さと平明だった秩序さを
旅への誘いと故郷への回帰を
生と死を
分かち難い、ひとつの存在の中に、
統一し、包摂し、それを良しとした。

いや、その両者の相克の存在ゆえの緊張を
「詩的」であるとし、その全体を大丈夫だ、
それで大丈夫だと言われました。
(分解なくても怖くないよ〜!って)

単純な私は、まるで
近代の奈落から、ひょいーって
引き上げていただいた心持で、完全に包摂され、
パス先生、もう、わたし、大丈夫です、がんばれます、みたいな
気分で、幸せさんでした。

読者の皆様のなかには一体全体、あいかわらず、
西本は何を言っているのか
意味不明だ、カンベンしてくれな感じと想いますので、
この本を読んでみていただけると嬉しいです。
そして、そんなことは一言も書いてなかったとか、
解釈が間違ってるとか、やあ、楽しかったとか、
めちゃんこ包摂されましたとか、
おっしゃっていただけたらもっと嬉しいです。

うひょひょーってくらい、
もう一文一文、もったいなくて
もったいなくて、次に進むのが
もったいない。おいしくて、おいしくて、
先に進むのがもったいない、
ずっとずっととっておきたい
恋愛のような本です。

恋愛のように美味しい本というのは
素晴らしい最高の包摂を備えています。

近代の浅薄な分解を、二者択一を嫌い、
あらゆる存在の、生誕の本質に詩的活動を挿入せんと試み
その全部を観、引き受けよう。

春の雨、パス先生の包摂と
posted by にしもとちひろ at 21:27| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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