2010年09月21日

そのスケール

堕落論は何冊買っても消失する。
不思議だ。どこかに奉納してしまうのではないだろうか。
無意識に。と思ったら、実家に2冊発見した。
角川文庫2冊である。
え!角川文庫にもあったんだ!
驚きである。

安吾を読むといつも
ほんとうにびっくりしてしまう。

17歳 父死去。
父に関してはむしろ無関心であったが、
このころ地方政治家としての父の自伝を読み、
そのスケールの小ささを知って、軽蔑の念を
抱くようになった。

安吾はおとおさんのことまでもこういうだけでなく、
秀吉から何まで、すぐにスケールが小さいと言及して、
それは言語道断であるほど卑小すぎ、
ただ直接に俗悪そのものでしかない、と
まで言う。

だけど、最近
むしょうに気になるのです。

安吾の愛した
矢田津世子女史のことが。

なぜかというと、
安吾を読んでると、やっぱり
この人、絶対、大変な愛をしたなって思って
仕方ないのだ。
私は太宰や吉行を読んでいても
(苦手なのであまり読めていないが)
安吾ほど、あんまそうは思わない。

でも最近思ったのが
そういう恋愛をしている人、したことのある人間は
恋愛のことなど、小説には書かない。
エッセイで遊んだりするかもしれないけれど。

うんと、あまりうまくいえないけど
小説を読み終わったあとに、
恋愛しか、主張で残らないような、書き物を
彼らはしない。
愛したことが底流にあるが、決してそんなことは
書かない。書かずとも、自ずとそこに在るからだ。
自ずとある、自明を文学に乗せるのは至難ゆえ。

矢田女史は
神楽坂とか、いい作品を残したようだが、
私は存じ上げなかった。

安吾は文壇で評価を受けた彼女の才能を
自分が評価できないものだからといい、
認めなかったようだ。

安吾はこう書いていた。

5年間思いつめて接吻したら
慌ててしまって、絶交状をしたためて失恋した(教祖の文学)。

一方、矢田女史はお友達に
安吾とのことを
「自分はとういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくないのです。
そのために萎縮する性質だから。」こういったという。

安吾はおそらく
矢田女史の作品をスケールが小さい!と
思って、5年間思いつめて接して、
結果として、圧迫し、
最愛なる人を萎縮させた。
よくあるような話であるけど、
5年後、プラトニックで
ようやく接吻できたけど、
なんだか狂って
絶交状を送ってしまった、
というあたりがなんだか沁みる。

まったく、よくわかっていないけど、
この感じ、スケールが小さいという
悲しみをお腹に入れながら、5年もあたためた
感情かと思うと、なんだか哀しくなってしまう。

ていう、わたしのような、安吾狂いの多さから
矢田女史は講談社文芸文庫に入れてもらえた。
私たちは彼女の作品を読めるようになった。

こうかくと、ひどい。
あんまりだ。
あまりにも矢田女史に失礼なので
私は神楽坂を、彼女の作品を読もうと思う。

秋田の五城目の出だ、そう。

すばらしい先輩たち
にしても、タイトルどうにかならんかね。

それにしても、作品が残っていて、作品を彼女が
残していて、本当によかった。

やっぱり、作品は残すべき、と思う。

やっぱり、作品は残すべき、と思う。

「残す」とは、いかに。

文学という道標は
そのスケールにおいて案外あてになるようで
ならないんじゃないかと、思ってみたくも。

いや、

その届かぬスケールの
大きさの圧倒に触れてみたくも。

でも、とはいっても
作品という文学のスケールの話は
やっぱり、哀しい哀しいと思ってしまうのは
なぜだろう。
posted by にしもとちひろ at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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