2011年03月01日

めちゃんこ包摂されましたとか

オクタビオ・パスと包摂。

春の雨はとても冷たく、
ちくま学芸文庫さんの厚みが
愛しく、うきゃきゃ。

さて、今般の出張では
実は本を一冊も持って出ませんでした。
旅先で買った本の数もきわめて少なかった。

ドキドキしながら「あのぉ、ZINEを
置いていただけるか否かの審査は持ち込みでなくても
郵送でも大丈夫ですか?」とお兄さんに伺うので精一杯で、
本選びに没頭できなかったこともありますが。

(ありがとう、大好きなG書房@京都さん。
何を言っているのか、なぞなぞな人間に、どんな
ZINEなんですか?と懇切丁寧に聞いてくださって、感謝(泣)です。)

→あ、(Mさん)この前、教えてくださった、
京都の「ぱんとたまねぎ」さん引っ越すみたい(福岡さんに)だよ。

さて、私という人間は、最近、下手すると出張先でまちを歩かず、
ホテル篭りをして、本を読んで、綺麗なお風呂に浸かって、寝てしまうという
いつのまにか、完全に駄目なまちづくりやさんになりつつあったのですが、
今般の旅路はいや、そうではいけない。

きっとワクワクするものであろうと
そんな期待があったためです。

ただし、出歩いたは出歩いたで、限界まで
外にいたことは確かですが、毎晩飲んでいて、京都で合流したY君に
「お土産とかええん?」と聞かれたとき、
「あ、大丈夫」とか答えてたくせに、実は大丈夫でも何でもなく
確か、その前々日、その前の日も一緒に行けなかった
(ぐすん)ケイコスティン用に
ご当地名物・うんちゃらボーロ@長浜とかを購入したのに、
その場所、場所(たぶん、飲み屋とホテル)に
忘れてきた!!!!!!ということも
一週間も忘れたまま、つい、さきほど思い出し、
がびょりんこ、ショックでした。
(ケイコスティン、ほんとうにごめんなさい。)

なので、記憶にしっかりとあり、ちゃんと手元にあるものは
最後の滞在地、上勝だけです。

上勝のことは後で新聞かZINEに書くので
(いま、ケイコスティンが新聞をつくっている)、
そちらに・・・・。

今回は何を書こうかと想ったかというと、
そうです、パス先生のことです。

昨晩より『弓と竪琴』(牛島信明先生の訳)を読みはじめて
心臓がバクバク言いました。

啓かれるべき、蒙とは何か。

私なんて、この問いだけで、鼻血が出るかと想うくらい
ドキーってしてしまうんですが、パス先生はその問いに対し、
両極にある相克の結合(統一)という大胆さを持って、
(というよりは、対の相矛盾、その
両者の間にある緊張、それ自体を「詩」と呼び、「全体」と呼んで、)
彼のいうところのあらゆる「詩的」活動を持って、
未完なる答えを出し続けることで、啓きを示そうとされました。

これは、気持ちがいいという次元ではなく、
あの曖昧模糊でノスタルジックでしみったれていた
私の中での「詩的である」という従来概念
(「詩的である」とは一体どういうことか)を
破壊してくださり、

曖昧さと明確さを
くすんでいたものと透明さを
複雑さと平明だった秩序さを
旅への誘いと故郷への回帰を
生と死を
分かち難い、ひとつの存在の中に、
統一し、包摂し、それを良しとした。

いや、その両者の相克の存在ゆえの緊張を
「詩的」であるとし、その全体を大丈夫だ、
それで大丈夫だと言われました。
(分解なくても怖くないよ〜!って)

単純な私は、まるで
近代の奈落から、ひょいーって
引き上げていただいた心持で、完全に包摂され、
パス先生、もう、わたし、大丈夫です、がんばれます、みたいな
気分で、幸せさんでした。

読者の皆様のなかには一体全体、あいかわらず、
西本は何を言っているのか
意味不明だ、カンベンしてくれな感じと想いますので、
この本を読んでみていただけると嬉しいです。
そして、そんなことは一言も書いてなかったとか、
解釈が間違ってるとか、やあ、楽しかったとか、
めちゃんこ包摂されましたとか、
おっしゃっていただけたらもっと嬉しいです。

うひょひょーってくらい、
もう一文一文、もったいなくて
もったいなくて、次に進むのが
もったいない。おいしくて、おいしくて、
先に進むのがもったいない、
ずっとずっととっておきたい
恋愛のような本です。

恋愛のように美味しい本というのは
素晴らしい最高の包摂を備えています。

近代の浅薄な分解を、二者択一を嫌い、
あらゆる存在の、生誕の本質に詩的活動を挿入せんと試み
その全部を観、引き受けよう。

春の雨、パス先生の包摂と
posted by にしもとちひろ at 21:27| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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