2011年03月16日

祈りの音

数えること。

被災者の数。
地震の規模。
放射能の濃度値。

数えること。
子どものとき、最初に習う
数えること。

いち、に、さん、し・・・
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ・・・
羊が一匹、羊が二匹、それは眠れない夜にも使われた。

指を折りながら、数えたし、それ以上を
たくさん、とも言った。

私たちにとって、数えること。
なぜ私たちはそもそも数えるのだろう。

数とは一旦、地に落ちると
なにがしかの安心を与えると同時に、
なにがしかの不安を与えるものになる。

数は分ける。私たちの日常を分ける。
比較可能なように、わかりやすく。
データ化し、確率をはじき、
より大丈夫な方向?が示されるように。

私はその恩恵を受け、今日が在ることを否定しない。

ただ、数は私たちの無垢な?自然な感情を
容易に超えてゆくことができる。

わが身の安堵に。愛するものの無事に。

被災した人間と被災していない人間。
被害にあった地域と被害にあわなかった地域。

数は今日も数えられた。
分けられた現実を保存し、よりよく更新するためだ。

ただ、自分はどちらに数えられたのか。

後者でよかった、という安堵感は果たして健全か。

より安全で、より安心で、より大丈夫に
より不安を取り除こうとする本能。

「コンビニにパンも水も電池もカップラーメンもなくって
何個もスーパーも回って午前と夕方1回ずつ行って、
ようやく、2、3日は過ごせる食料は確保できたわ。」

この安堵は果たして健全か。

分けられた現実の中で、その更新が始まる。
その更新は本当に「未来へ」の志向を持つものか。
その「未来」とはいったい何か。

私たちがより、安心するため?安全であれるため?
私たちは今日も数えた。
〜%の確率で、〜〜するでしょう。

後者の「前者のために」という声と行動で日常が埋まる。埋まり始めた。
前者は数値の増大の中に無声で閉じ込められたままだ。

その数値は一刻一刻、増えてゆく。
後者はその数値を数え、観る。
そして整え、行動する。

それが繰り返される。

元来、私たち祖先が絶えずしてきた
数えるということは、こんな風に日常を
分かつための手段なのか。

数えるということは
その分かれた相手を
数日前まで同じであった、
同一であった相手を数え、差異を更新するものなのか。

いや、自分の、そして愛する人たちの無事への感謝を越え、
「虚心に数えるということはどこかで
祈りへ通じるものかもしれない。」
最近、どこかで読んだ古井由吉の言葉に
包摂を想った。

数は分かつためのものでなく、数えることは
祈りに通じるものであると、であるから、
わたしたちは、今日も数えるのだ、と。
明日も数えるのだと。

私たちの日常をそんな未来へ投ぜよと、
数え切れない雨粒が音をつくる。

私たちが雨粒の数など知らねど、音は在る。
分かたれることなく、確かに在る。

それは自然に反復され、更新され、
ゆっくりと森へ土へ海へ還る。

森羅万象と。
posted by にしもとちひろ at 04:31| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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