2011年03月05日

ホンモノ、ニセモノ、灰色

安部公房の講演のテープを聴いていて
なんか、いろいろ思うことがあって、
なんか、箱男のことを話していて、
存在証明(看板、登録)を下ろすことや匿名性という観点より
乞食や親の存在とかニセ医者に言及していたので、
かなり聴き入っていたんだけど、
そしたら、オヤジが帰ってきて、
一部だけを聴いて、
「なんだ。こいつ。話がめちゃくちゃだな。」と言って、
ももひきで横を通り過ぎた。グレーだった。

私はその時、どういうわけか、ものすごい、言葉に出来ない
厭な感じを覚えた。
ビジュアルもタイミングも心理的に最低な気分になった。
白じゃなくてよかった。もっとひどい気持ちになったと想う。

その直後に、安部公房は
親が死んだとき、親が死んで哀しいと
いう気持ちとほとんど等量に裏腹に、
ほっとするという気持ちを子どもがどこかで
必ず抱く。親になるとこの気持ちを私たちは
受け入れられないけれど、誰でも
子にはそういう思いがある、これはと言った。

そして、この恐ろしい部分を抜き出して、
これは真理である、原理であるといったら
私たちには落ち着かないってのがありますね、と。

私はぼーっと聞いていたんだけど、
父は通り過ぎて、そこは聴かないで通り過ぎたようだった。

ほっとしたような、聞かせたかったような
複雑な気持ちがした。

親の愛情によって子は生かされてきたし、殺されてきた。
常に一線を越える愛情と憎悪が包摂の周縁を行き来する。

やっぱり、いくらすり切れたテープであっても
肉声ってのは力だな、と思った。

いや、物書きには余計な力だな、とも思った。

そんな感じでいると弟がやってきて、
「お姉さんそんな暗い顔して
安部公房の講演テープなんて聴いてる女は
モテないよ。考えてみなよ。
母さんももう諦めてお雛様も3日過ぎて、
いつもは慌てて片付けてくれるのに
もう片付けてもくれないでしょ。ね。姉さんは
自分でもうちゃんとしなくちゃいけないんだよ。」
と言った。

弟は世界で一番正しく、可愛い。
いつものとおり思った。

そう思うと、その存在をつくりし両親は
なんだかんだ、ももひきさんだって、すばらしい。
ありがとう。

追記
安部公房のニセ医者の話が一番この講演テープでは
わかりやすくて面白かった。

一貫して、ホンモノとは何か、
国家の用意した制度、登録、証明の仕組みと
わたしたちの存在自体(生命)のありよう、その両者の関係についての話
だったと思うんだけど。

国家試験にとおった、つまり登録された医者との比較で
ニセ医者とどっちが怖いかっていう話、つまりは
本物であることがいいことではないって話。

これは話の内容が想像つくとおもうので、詳細書かないが
とてもよかった。ええ、実によかった。(です!)


posted by にしもとちひろ at 22:27| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月04日

近江の朝に 2

何かにつけ、少々過激であるように
一工夫、中身のない言葉を並べ、そう仕向けることで、
海原に一瞬の波が立つ。
容易とは言い切れないが、風とともにそれは確かに立った。

(過激といったって、少々目立つくらいの意味で使っている。
あしからず。)

一方、ごく僅かの小波を起こし続ける方法は
ちょっぴり過激であるようにくらいのおまじないでは
生じさせることができない。

私たちの観られる、限られた時空を越えて、
その運動を大海原の無限に、私たちの存在が消えようとも
残りし、僅かな小波の運動となれば、なおさらだ。

それはいわば、
未完たる連綿、いや、連綿たる未完の運動文様へ
私たちの身体を、いかに織り込めるか、だ。

始まりも終わりも、意識されぬ(させぬ)よう
運動文様の中へ。

尖鋭なる友人たちのプレスリリース発信に寄せて。
リリース、後の小波と。

いや、その前に敬服と。

私はここ数年プレスリリースなるものを
1本も出していない。これは企業体としては
休眠状態であることを意味する、ことはわかっているけど、
どうしても出す気が起こらない。

波立たせることに憧れつつも、己の非力ゆえに倦みやすく、
その倦みやすさが、いずれ、吉と出るのか、凶とでるのか
全くわからないから、不安な日々だったりもする。

そんなとき、いつなんどき、いかなる歩を、いかなる盤に。

その自然な様に、自然な体に、
想いを馳せよ、馳せよと、竹生島の謡う。
posted by にしもとちひろ at 00:11| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

近江の朝に

近江の朝に

「私のような者には
引き合いに出すのも遠慮されるところだが・・・」

古井由吉を読むと、呼吸が整えられる。

以前、おそらく「「が」の地獄」というタイトルだったと思うが、
『新潮』にて、芥川の遺作『歯車』に
あまりに接続詞「が」が多いことを引き、

「あれは、なにごとかですね。「悪文」とひとは言うけれど、
ぼくはあの小説の生命じゃないかと思った。」

と、、物を書く人間がいかに接続詞を置く作業に
心を砕いているか、それは生命を繋ぐ作業であると
いう風に述べていたエッセイを読んだ。

それ以来、またもや単純な自分は彼の文章の
起伏なき、誇張なき文字の綴り方ではなく、
繋ぎ方をやけに意識するようになってしまったのであるが、

ただ、「接続」に心を注ぐことによって、あの文体の静かなる
本当に静かなる綺麗で優しいものが出来上がるのかと想うと
ゆるり、ゆるりと波の音が迫ってくるような当たり前の波の
「結節」に気持ちや視線が届き、おのずと、そのこれまでの当然が
愛しくなってくる。

嗚呼、彼の本の折り目の縫い目の中に
身体が吸い込まれるように
眠く、優しく、自分の中の冷酷さや狂気じみたものと
一緒に畳まれたく。

明け方の夢。
白き、近江の包摂。

さざなみの絶え間ない結節と。
posted by にしもとちひろ at 22:54| まちの風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月01日

めちゃんこ包摂されましたとか

オクタビオ・パスと包摂。

春の雨はとても冷たく、
ちくま学芸文庫さんの厚みが
愛しく、うきゃきゃ。

さて、今般の出張では
実は本を一冊も持って出ませんでした。
旅先で買った本の数もきわめて少なかった。

ドキドキしながら「あのぉ、ZINEを
置いていただけるか否かの審査は持ち込みでなくても
郵送でも大丈夫ですか?」とお兄さんに伺うので精一杯で、
本選びに没頭できなかったこともありますが。

(ありがとう、大好きなG書房@京都さん。
何を言っているのか、なぞなぞな人間に、どんな
ZINEなんですか?と懇切丁寧に聞いてくださって、感謝(泣)です。)

→あ、(Mさん)この前、教えてくださった、
京都の「ぱんとたまねぎ」さん引っ越すみたい(福岡さんに)だよ。

さて、私という人間は、最近、下手すると出張先でまちを歩かず、
ホテル篭りをして、本を読んで、綺麗なお風呂に浸かって、寝てしまうという
いつのまにか、完全に駄目なまちづくりやさんになりつつあったのですが、
今般の旅路はいや、そうではいけない。

きっとワクワクするものであろうと
そんな期待があったためです。

ただし、出歩いたは出歩いたで、限界まで
外にいたことは確かですが、毎晩飲んでいて、京都で合流したY君に
「お土産とかええん?」と聞かれたとき、
「あ、大丈夫」とか答えてたくせに、実は大丈夫でも何でもなく
確か、その前々日、その前の日も一緒に行けなかった
(ぐすん)ケイコスティン用に
ご当地名物・うんちゃらボーロ@長浜とかを購入したのに、
その場所、場所(たぶん、飲み屋とホテル)に
忘れてきた!!!!!!ということも
一週間も忘れたまま、つい、さきほど思い出し、
がびょりんこ、ショックでした。
(ケイコスティン、ほんとうにごめんなさい。)

なので、記憶にしっかりとあり、ちゃんと手元にあるものは
最後の滞在地、上勝だけです。

上勝のことは後で新聞かZINEに書くので
(いま、ケイコスティンが新聞をつくっている)、
そちらに・・・・。

今回は何を書こうかと想ったかというと、
そうです、パス先生のことです。

昨晩より『弓と竪琴』(牛島信明先生の訳)を読みはじめて
心臓がバクバク言いました。

啓かれるべき、蒙とは何か。

私なんて、この問いだけで、鼻血が出るかと想うくらい
ドキーってしてしまうんですが、パス先生はその問いに対し、
両極にある相克の結合(統一)という大胆さを持って、
(というよりは、対の相矛盾、その
両者の間にある緊張、それ自体を「詩」と呼び、「全体」と呼んで、)
彼のいうところのあらゆる「詩的」活動を持って、
未完なる答えを出し続けることで、啓きを示そうとされました。

これは、気持ちがいいという次元ではなく、
あの曖昧模糊でノスタルジックでしみったれていた
私の中での「詩的である」という従来概念
(「詩的である」とは一体どういうことか)を
破壊してくださり、

曖昧さと明確さを
くすんでいたものと透明さを
複雑さと平明だった秩序さを
旅への誘いと故郷への回帰を
生と死を
分かち難い、ひとつの存在の中に、
統一し、包摂し、それを良しとした。

いや、その両者の相克の存在ゆえの緊張を
「詩的」であるとし、その全体を大丈夫だ、
それで大丈夫だと言われました。
(分解なくても怖くないよ〜!って)

単純な私は、まるで
近代の奈落から、ひょいーって
引き上げていただいた心持で、完全に包摂され、
パス先生、もう、わたし、大丈夫です、がんばれます、みたいな
気分で、幸せさんでした。

読者の皆様のなかには一体全体、あいかわらず、
西本は何を言っているのか
意味不明だ、カンベンしてくれな感じと想いますので、
この本を読んでみていただけると嬉しいです。
そして、そんなことは一言も書いてなかったとか、
解釈が間違ってるとか、やあ、楽しかったとか、
めちゃんこ包摂されましたとか、
おっしゃっていただけたらもっと嬉しいです。

うひょひょーってくらい、
もう一文一文、もったいなくて
もったいなくて、次に進むのが
もったいない。おいしくて、おいしくて、
先に進むのがもったいない、
ずっとずっととっておきたい
恋愛のような本です。

恋愛のように美味しい本というのは
素晴らしい最高の包摂を備えています。

近代の浅薄な分解を、二者択一を嫌い、
あらゆる存在の、生誕の本質に詩的活動を挿入せんと試み
その全部を観、引き受けよう。

春の雨、パス先生の包摂と
posted by にしもとちひろ at 21:27| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月28日

馬車で遠ざかる、ガランス

『天井桟敷の人々』(DVD)を観た。
なんか、長いし、切ない(すぎる)ので
あんまり観ないようにしようと
思ってるのに、また観てしまった。

ガラーンス、ガラーンス、ガラーンス。

バチストの声が大衆にかき消される。

ガラーンス。

馬車で遠ざかる、ガランス。

その表情。

嗚呼、バチスト。

また最後まで観てしまった。

夢に出てくる。これはまた夢に出てきてしまう。
ガランス(アルレッティ)が出てきてしまう。

嗚呼、バチスト。

今宵は真っ白なバチストと眠ろうと思う。

春の雨。
posted by にしもとちひろ at 18:41| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月19日

縮退社会におけるまちづくりを考える −事例からの検証−

きょう、お腹が痛くて戻ってきてしまって、
ギャザリングにいけなかった。
どぅしよう。途中で、うちのチーム誰も行けてないんじゃ。
と想ったけど、M君が行っていることに気づいて
ほっと甘えて戻ってきてしまった。(ほんとうにいつもごめんなさい。)

明日、宇大でこんなイベントがありますって、わたしは
全国のまちづくりの事例から縮退社会への取り組みについて報告・・・

はは〜ん。先日、Y君が言ってた、縮退社会ってのはこれかあ〜。

>従来のような成長モデルではない、新しいまちづくりの方法論

どうしようかしら。

ここで岡倉天心先生とかが一緒に来てくれたらどんなに心強いか。
天心先生だったらなんておっしゃるかなあ。

うーん。

以下、天心な妄想。

***********************************

まちづくりに対するこれほど盛んな表面の熱狂は
真実の感情に根ざしていないので、これまで浮ついたものでありました。

たとえば、いまひとつの一般に犯しているまちがいは、
まちづくりを一種の考古学とみなし、年代が古いからだけという理由で
浅き歴史的共感を、今われわれの審美的判断を一切犠牲にする形で
広め、一斉に賛美するところにあります。とくに歴史的観光まちづくりの
浅薄さは悲しいまでのていであります。

このように各々が日常の真実の感情に
根ざすことなく、世間一般がよい?ような
事例を無条件によいと見做し、喝采することは実に恥ずかしいことであります。

縮退社会とは、人口減少の時代への突入、
低経済成長社会のことをさしておられるのだとしたら、
今一度、成長とか、新しいとは何かとか、の議論にはじめて、至るときでしょう。

皆様がたにとりまして、蓬莱山はいずこにございましょう。

大変に世の中が混乱中であるご様子ですが、そんな時こそ
おもしろい議論やのぞまれましょう。いやはや、たのしみです。
無意識に多数の趣味や憧れへの迎合は、そろそろお飽きでしょうから
なおさらです。

また、さらにもうひとつ申し上げるとするならば、
たとえば、みなさま、まちづくりやの方々が問題であるとされる、
とくにそうですね、今後の縮退社会では一層取り上げられてまいります
「空家」問題ですが、われわれの世界でいえば、それはVACANCYの
意味の「あきや」ではなく、「すきや」でございまして、
文字であてるのであれば、「好き家」や「数寄家」となる
こともございます。

いずれにいたしましても、空いているから即座に困った、
社会問題だとかいうことには
なりませんで、どなたか個人の芸術的要求にかなうように創造されし建物ですので、
当座の審美的必要を満たすがために置くもの以外はおきませんで、
ひたすらに不完全である、未完である、ありつづけておくことに
想像力のはたらきを重んじようという心でございます。

また、万物を包摂するという道教の説?を伝えるものであるほかは、
絶えず装飾上の主題の変化が重要であるという教えを
有するものであります。

まあ、このように一例をとりましても、われわれの心に真に
訴えてくるものをゆっくりと探しましょう。
われわれのこころに訴えかけるものは、手練よりは魂であり、
技術よりは人間であり、その呼びかけが人間的であればあるほど
われわれの反応は、深い傑作として、つまりは生きた現実に屹立するでしょう。

その偉大な傑作、現実性を前にしたとき、
はじめて、われわれはともに世代を超えて
共に想いに耽ることができるのでは。

それならば、先の歴史的共感と呼べましょうか。

一服のお茶を、ひとつのため息を、
午後の竹林に注ぐ陽光を、刹那なはかなき夢を
真に味わうことができようと、そんな思いでおります。

では皆様、ご清聴ありがとうございました。

                     岡倉天心

******************************

ああ、長い妄想から帰還でありますが、
でも私は明日単身でお伺いするのでありました。

なんか、一般に重要だとされる
「どこか、今、視察にいける事例」を
語れる予感はあまりしませんが、
が、がんばります。

M君の活動場、故郷でのハイパー重要な会なのに、
すごいお世話になっている陣内先生の会なのに、
ほんとにどないしよ〜〜〜ってかんじですが
いまさら焦ったってなんにもなりませんで、
いつもの等身大でいくしかありません。

では、みなさま、あしたはゆめうつのみやで。


  「縮退社会におけるまちづくりを考える −事例からの検証−」

▼趣旨 
 我が国は人口減少、超高齢社会、
少子化という未曾有の社会的転換点にあり、
正に「縮退社会」を迎えつつあります。

栃木県は既に人口減少に転じ、
また、宇キ宮市も近い将来減少に転ずることが
予測されています。

そのような中、従来のような成長モデルではない、
新しいまちづくりの方法論が必要になっています。

 本公開講座では、4つの報告を参考に、
縮退社会におけるまちづくりのあり方や
方向性を考察することを目的とします。

■日時

2011年2月20日(日)  13:30〜16:30

■会場

 放送大学栃木学習センター(国立大学法人宇キ宮大学構内)
■パネラー
・西本千尋さん(潟Wャパンエリアマネジメント代表取締役 東京在住)
  全国のまちづくりの事例から縮退社会への取り組みについて報告
・阿久津新平さん(宇キ宮在住)
  都心居住の可能性と課題に関する報告
・加藤能久さん(宇キ宮在住)   
  市民主体による宇都宮市中心市街地でのまちづくりビジョン立案の報告
・岩井俊宗さん(NPO法人とちぎユーサポーターズネットワーク共同代表 宇キ宮在住)
  日光市三依地区での限界集落活性化プロジェクトの報告


posted by にしもとちひろ at 18:53| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月15日

相撲取りが落ちたよ

東京は久しぶりの大雪です。
みんななんだか、雪っだーって
ホワイトバレンタインだーって
なんだか何度も窓をふきふき、外なんてみちゃって
ほんとだねー、すごい積もってるねー、
ねーってみんな大人なのに
顔はウキウキです。

こんな雪の日、といえば
谷内六郎のこの絵を思い出します。

相撲取りが落ちたよ

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ほんとに夜中にドッーンって音がするもんね。

金沢さんの寒の雷(裏山が崩れるように夜中雷がなる)より、
なんか怖くなくて、ふふふと笑えます。

ちなみに、ちっちゃいとき、じゅんぽんと
これもよくやりました。

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posted by にしもとちひろ at 01:24| まちの風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

日本全国!地域仕掛け人市

みなさま、こんにちは。

エティックさんで
日本全国!地域仕掛け人市なるものがあるそうですので、
ぜひご参加をば。

-UIターン・転職・起業、“地域を元気にする仕事”をつくるマッチングフェア-

                    2011年2月19日(土)@東京・溜池山王
               http://www.challenge-community.jp/forum/2011_2
posted by にしもとちひろ at 19:20| まちづくりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月31日

大雪さん

ここ数日は北陸にはほんとうに大雪が降っていて、
一面がいっそう深い真白になった。
雪の犀川の景色はなんと形容していいか
わからないくらい、ほんとうにほんとうに綺麗で、
ちょっと遅刻しそうなくせに、何度も何度も
止まって眺めてしまう。この景色はちょっと表現しようがない。

だけど、駅に行ったら、特急も普通も全部動いていなくって
ウソォー。今日から楽しみにしてた出張で、
早起きして、3日間分動けるしたくをして
あんなに雪道をせっせと走ってきたのに!

そういえば、桜橋の真ん中に
クルテク君が雪だるまちゃんと乗ってたソリみたいなのに
ゴッツイおじさんが2人乗ってた。

バスは分厚いカツラみたいな雪をかぶって、のそのそ走ってる。
まち全体がまっしろい和菓子みたいになってしまった。

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posted by にしもとちひろ at 10:05| 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月27日

きんいろ君へ

小さい頃のことだ。

いつだかは忘れた。

とても小さい頃のこと。

家にあったエリーゼのためにのオルゴールを
ぐりぐりいじっていたら、なぜかとまらなくなった。

困った私は
金色の物体を取り出し、
ずっと手の中で握り締め
音を小さくしようと試みていた。

でも手でいっくら握り締めたからといって、
とまるわけはなく、
指の隙間から
トゥルトゥルトゥルトゥルトゥルルー
というメロディーが鳴り続けた。

1日目はもっていたポシェット?のようなもの
(どうして昔、あんなにひとつのポシェットを大事にできたんだろう)に
ハンカチでぐるぐるまきにして閉じ込め、それを家のどっかの片隅に隠した。

次の日くらいに、気になって、見に行ったら
やっぱりまだ鳴っていて、おそろしくなって、
やっぱり、家じゃだめだと思って、
外に捨てにいくために家を出た。

マンションの一階の駐輪場に行って、
置いて去ろうとしたが、背中の後ろで
トゥルトゥルトゥルトゥルトゥルルー、
トゥルトゥルトゥルトゥルトゥルルー、と鳴り止まない。

あなた本当に無生物?!みたいな恐怖である。

もう幼い私は本当に怖くて仕方なかったので、
隣の空き地(駐車場)へ塀よりぽーんと投げた。

なんかカンタンじゃない!

私は球技がまるっきり駄目だったのに
がんばって肩を使って投げるを最初で最後、
できたのはこのときだけだ(とおもう)。

ただ、投げた瞬間から罪悪感にかられた。
エリーゼ様ごめんなさい。ベートーベン様ごめんなさい。
エリーゼのためには、私がブルググミュラーの次かなにかに
はじめて弾かせてもらった曲なのに、空き地に投げたなんて、、、。

第一、金色君を失ったオルゴールはどんなにさびしい思いをしただろう。

長年、その思い出はわるい思い出として、私をこらしめた。

今でもたまに小さな手の中で握り締めた、汗びっしょりな金色君と
トゥルトゥルトゥルトゥルトゥルルーを思い出す。

大人になったらもっと怖いことがいっぱいあったけど、
小さいときもやっぱりそれなりにあったんだね。

がんばって大人になりました!

今日、なぞなお絵かきをして、筆を握り締めていたら
手に汗をかいて、そしたら、この金色君の思い出が出てきてしまいました。

金色君、あの空き地で、ひとりでまだ鳴っていますか?
やさしい女の子に拾ってもらって、大事にきいてもらえていたら、とも
おもうけれど、「相変わらず、勝手な女だな」と言われたら、
わたし立ち直れません。

今度マンションにいったら、隣の空き地に探しに行きます。

実はお父さんに先日、このことを相談したら、
「忘れろ!」と真顔で言われました。

ごめんね、金色君。



posted by にしもとちひろ at 19:36 | TrackBack(0) | 私の日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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